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2016年8月22日月曜日

出会い encounter

2016.8.22

出会いというのに至るまでには色々な経緯がある。人との場合もそうだが、ここは本との出会いである。
There are many kinds of stories to come to encounters. It is so about with humans, but this is about an encounter with books.

例えば、好きな本屋で時間つぶししている間にふと手にとってしまった場合。以前はよくあったケースだが、最近は所有物、特に形のある所有物を増やすことに少々抵抗があるし、そもそも外出の機会が減っているから本屋に行く機会も激減している。従ってこのケースで買うことも激減だ。但し、少しは行くから、本の魅力次第でその本をKindleで注文したり、図書館で借りたりして読むということは0ではない。
For example, one case is when I end up picking up one when I am killing time at a favorite bookstore. It happened often before, but recently I hesitate to own, especially physically, things, and also as the opportunity I go out to town decreased, the chance to go to bookstores dropped a lot.
本屋と間接的に繋がっているのは、私が中高生の頃、本屋から無料の岩波、新潮、角川等各社文庫本カタログを貰って来て、それを頭から熟読しその中かから本を買うなんてこともよくやった。今はどうか知らないが、当時は本屋にこのカタログが山のようにおいてあった。今はカタログを持っていないのでこのケースで本に出会ったというのは何十年も前の事になった。
Indirectly connected with bookstores, it happened a lot that when I was high-school / junior-high, I obtained free catalogs of paperbacks published by the paperback publishers, through them from the beginning, and bought books I was interested.
最近は、本屋に行かなくても、電子メールによる宣伝やFacebook等のSNSで見かけて興味を持ってしまった場合が多くなっている。今はやたらとあちこちに「あなた、これ欲しいでしょ」みたいに宣伝が出てくるのでついクリックしてしまう。前回書いた「人間性はどこから来たか」はそのケースだ。各出版社のカタログのようなものもネットにあるのだろうが、何故はそれはやらない。熱意か根気がなくなったせいかもしれない。
Recently, although I don't go to bookstores, number of cases is increasing that I am interested in the books that were advertised by Email, in SNS like Facebook. Now, the advertisements like saying "Hey, don't you like this?" appear everywhere, and I click them without considering carefully. The book I wrote in the previous article "Where did humanity came?" was one of the cases. I know each publisher has a sort of net-catalog, but by some reason I do not opt to read them throughly. I may lost patience or passion.
 
更に、カタログではなく読んだ本に出てきた本を求めるということも結構あった。古くは高校生の時だったか、父から与えられた「海軍主計大尉小泉信吉」という本に出てくる本を色々と漁った。この小泉信吉という人は非常な読書家で、この本はその日記のようなものなのでが、毎日のように「何々読了」というフレーズが出てきた。私も当時つけていた日記に真似して「何々読了」と書いたのを思い出した。
Furthermore, I purchased pretty often books that were referred in books that I had read. An old example is, probably it was when I was in high school, I hunted various books that appeared in a book "Navy paymaster Shinkichi Koizumi". This Shinkichi Koizumi was a man of extraordinary bookreader, this book is a kind of his diary, and there many times appeared the phrases of "I have finished reading..."。I recalled that I wrote similarly in my diary that I was used to write then mimicking Shinkichi.

また、もう引退された公明党の赤松正雄先生から縁あって「忙中本あり 新幹線車中読書録」を頂いたことがある。から読ませていただいた。この方も恐るべき読書家で、山程の本を平らげた様子が書かれている。この中からも何冊もの良い本のヒントを受けた。唯、とても全部読むはできなかったが。後で読んでみようと軽い気持ちで本にタグを付けていたら、先生にびっくりして頂いて、少し恐縮したこともあった。
Also, having had a good opportunity I was once gifted a book "You're never too busy to take a book." by The Hon. Masao Akamatsu (Ret.). He is also a grand bookreader, and the story of devouring mountains of books was described in the book. I learnt many hints of books to read although I could not read all of them. I was ashamed when he surprised to see that I put a lot of tags on the book.

議員は引退されたようだが、これを書くために少し調べたら、流石もと新聞記者でいらしただけに、同名のブログはまだ続けていらっしゃるようで、嬉しかった。
It looks like he retied a diet member, but searching about him, I am pleased to find he still continues his blog with the same name as he once was a journalist.
さて、今日も図書館から本を借りてきた。話は長くなるが、先日やはり図書館から借りてきた「考える人」の一冊、「数学の言葉」を読んだ時のこと。
Well, today I borrowed a book from a library. It is a long story, but it was when I read "Words in mathematics", one of a series of a magazine "Thinker". 

この中の文章に出てきた数学の用語に判らない言葉が幾つもあり大いに不満感が膨れ、唯の暇人でもついていける数学を本がないかと、Amazonで調べていた時のこと、罪作りなアマゾンが「これもいかが」と出してきたのが「現代の古典解析」というもう40年以上前の本。なんとこれは私達が大学一年の前期に解析の授業のテキストであった本ではないか。まあ、これを選んだ先生も変わっていたし、本も変わっているなんてものではない。この教科書のお陰で私はその後の大学の数学についていけなくなった等と、自分の不勉強を棚に上げて筋違いの恨みを感じている。今日出だしを読むと「解析の講義のサワリ集といった性格を持っている。したがって、副教科書ないしは参考書のような気分で、正規の講義と並行して用いられることを考えている。」と書いてあるではないか。しまった。ろくに授業も出ないで、試験前にこの本をウンウン唸って読んでもわからない筈である。
I was very much frustrated when I found many words that I could not understand, so I searched in Amazon for any books of mathematics that just a idler like me can keep up with. Then, it was this book "Contemporary classic algebra" that wicked Amazon brought up like saying "How about this?". Why, it is a text book of an algebra lecture that I attended on the first term of my university freshman year. Oh the teacher who chose this as a textbook is eccentric, and the book is much more than eccentric. I have an unjust resentment that because of this book I became not to able to keep up with lectures of mathematics later on. Today I read the beginning of the book, and to my surprise I found it says "It has a character of a collection of hook lines to algebra. Therefore, I am considering this to be use as feeling like a sub-textbook or a reference book along with a regular lecture." Oops! It is natural that I could not understand mathematics by just reading the book with groan barely attending lectures.


今日借りてきたのは文庫本だが、実際使ったのはこれだ。柳原良平さんのトリスおじさんの表紙カバーだし、数学の教科書として変わっているのは直ぐわかると思う。しかし、私はこういうのが好きなんだなぁ、今でも。ハードカバーの本も図書館のリストにはあったのだが、文庫になったんだぁ、という感動の気持ちを込めて文庫本の方を借りてきたのだ。
The book I borrowed today is a paperback, but the one I really used is this. It is obvious that it is unusual as a mathematics textbook looking at the cover sheet of the book featuring a comical character that is a popular character used for one of popular whisky brand in Japan. But, I like tendency like this still now. The one of hardcover was listed in a library, but I chose this with my thrill that I felt to know the book was published also in a paperback.

とても最後までは読めないと思うが、拾い読みでも当時と今とどの位頭が悪くなったか良くなったか検査するつもりで読んでみようと思う。
「考える人」に書かれていた本も求めなかったわけではなく、選びあぐねた挙句にこれをKindleで買った。少しでもコンピュータと名のつくものを生業とした身としてこのくらいは読んでおかねばならぬかと思ったのだ。
I think I cannot read all until the end, but I will read to examine if I am now better or worse than that time.
It is not that I did not buy any listed in the "Thinker", but I bought this after considering long time. I thought I should read this as a man once of occupation of anything of computers even a little.

2016年8月21日日曜日

人間性はどこから来たか

2016.8.20

京大出版から出ている西田利貞先生著の本を読んだ。霊長類研究の大御所である。読み始めてすぐに、かなり独善的とも思える著者であると感じた。それだけに、どうなっていくのか興味津々で読み始めた。流石、その手の情報があふれるほどで、しかも奥深い。

しかし、読み進むに連れ少々苦しくなり、途中から拾い読みになってしまった。これから人間学、猿学を学んでいく人だったら情報や過去の研究例が豊富でとてもためになると思うが、私はそのどちらでもないのだ。また、文章が、これまたかなり論文的である。真剣に読まねばすぐ道を見失う。私のような暇なのにせっかちな読者を遊ばせてくれるものとは違うものだ。

ところがだ。拾い読みで本の最後に至って、思わぬ方面で同感する宝が幾つもあった。霊長類の社会の研究成果から、人類のこれからに関しての手厳しい指摘である。何の根拠もない評論家や今一つの政治家の発言とは異なり、世界の研究に根付いているのだから、説得力が違う。
こうなると他にもないかと戻って読んでみたくもなったが、図書館の借用期限もあるので、それはまた今度にしよう。

「思わぬ方面で同感」というのを抜書きしてみた。以下<-->で挟まれた部分は引用であり、それ以外は私の感想などだ。
P.86
<-- p="">一方が援助し、その後で他方がお返ししに援助するのを「互酬的協力」と呼ぶ。同時には双方が利益を得られない場合、例えば相互援助の成果をその性質上、分割できない場合には、相互交渉ごとに一方が純損をこうむる。しかし、繰り返し相互交渉が起こり、前回損失をこうむったものが次回に利益を得れば、相互交渉を重ねるうちに双方が純益を得ることができる。
-->
<-- p="">ロバート・トリヴァースは、互酬的協力が進化する条件をいろいろ考えたが、そのうち「利己的な個体に利益を与えない手段を持つ」という条件が最も重要であると考えた。つまり、お互いに協力しようというそぶりを見せ、初回の協同作業で一方的に利益を得ながら、お返しをしない者を罰することができることである。
-->

成る程、今の世に当てはめると、互酬的な美しい社会を保つためには、他国の恩を仇て返す中国・韓国は罰せられることが正当だということか理解した。


P293
<-- p="">人類の目的が、「地球上にできるだけ多くの人間を一時的に存在させること」であるならば、それでよいだろうが、まさかそれを目的と考えている人はいまい。しかし、現実に行われていることは「人口の大記録」を達成しようとしているかのようである。せっかく、日本では1人の女性の出産数が1.5人(2006年では1.3人)となり、人口が減少に転じる気配を見せているのに、若者が多くの年長者を支えるのはたいへんだから、夫婦はもっと多くの子供を生むようにと声高に叫ぶ人がいたり、政府や地方公共団体が児童手当を増額したり、三人目の子供を産んだ場合には報奨金を支給したりするのには呆れるほかない。
-->
<-- p="">「四人生んだからいけない」といっているのではない。1人も生まない人がいるからそれは大きな問題ではない。しかし、子どもも生まず、多額の所得税を払っている女性の方が利他的であることは議論の余地がない。
-->
反論を怖れぬ断定である。こういう所が気持ちがいい。その通り、今まで通りなら日本は世界のお手本のような国であり、日本以外に今まさに爆増している国をなんとかしなくてはならない。
<-- p="">日本は工業国として付加価値の高い商品を売って、相対的に安価な原材料や食料を外国に求めて、過剰人口にもかかわらず、これまで裕福な生活を送ってきた。しかし、今後世界の人口がもっと増えたら、食料が最も価値の高い商品になる可能性はある。太平洋戦争に敗戦したあと、日本の都市住民は食料を求めて農村に出かけ、和服や宝石やあらゆる貴重品を数回の食事と引き換えにしなければならなかった。飢えた人間にとって、パソコンはどれほどの価値があろうか。
-->
人口爆発している国々ではまさにこの飢餓から起きる問題が勃発している。食料を援助するより人口削減策を援助すべきだ。
<-- p="">進歩思想と結びついたヒトの特徴とはなんであろうか? 一つには他人より成功したいという競争心、あるいは他人と少なくとも同じ程度の成功の機会をもちたいという強い欲求である。第二に、所属集団のメンバーから賞賛を受けたいという強い傾向である。第三に、人から受けた援助にはお返しをしたいという強い傾向である。第四に、道具を工夫し、より安楽に生活したいという傾向である。これらの傾向はもともと狩猟採集社会で生まれ機能してたヒトの性質だった。それが、市場経済システムと安価な化石燃料と結びついたとき、競争と大量消費を生み出した。しかも、ヒトの脳はせいぜい今日、明日の問題解決のために進化したにすぎない。それは、100年先はおろか、10年先のことさえ考える能力の有る政治家が日本にほとんどいないことからもわかる。
-->
そうか。ヒトの脳は現状に十分適応していないのか。この分野の専門家である筆者のこういう考え方は説得力がある。
P296
<-- p="">ヒトの脳は、他の動物と同様、生まれ育った環境を自分にとって自然だと感じるように設計されている。
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<-- p="">まず第一にすべきことは、子どもたちを幼児のときから、山野に連れていき、それこそが、人にとっての環境であることを体験させることである。
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<-- p="">第二に、快適さや能率をあまり追求してはいけないことである。
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<-- p="">第三に、自然保護活動をヴォランティアとして行ったり、自分でできない場合はそういう活動をしているNGOに加入したりカンパしたりすることである。
-->
一応同感なのだが、この後に挙げられているグリーンピース等残念ながらこの手のNGOは暴走する例が枚挙にいとまがない。
<-- p="">第四に、拡張主義、成長主義はきびしく批判されるべきだ。大学でさえ、なにかといえば、新キャンパスだ、高層化だと騒いでいる。土建業と政官の癒着がなお強まるだけである。
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<-- p="">第五に、人口抑制に役立つあらゆる方策・政策が実行されるよう提案することである。日本のように若年人口層の減っている国は、貧困で人口過剰な国からの人口流入を認めるべきだという意見があるが、とんでもないことである。こういった事実上の万人救済主義は、富ではなく貧困を分配することになり、人口過剰を極限まで押し進めて、環境を破壊し、世界を破滅させるだろう。
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確かに、もし余剰人口を先進国が受け入れるだけであれば、その国では凝りずにまた出産し続けるだろう。
そして、最後の結論は、はからずも、私が常々モヤモヤと感じていることで終わっている。
P299
<-- p="">現在、地球上で起こっているあらゆる難題は、人口過剰が関係している。人口を減少させない限り、絶え間なく戦争は起こるだろう。人の命が尊いのは、人口が少ないときだけであることは、虐殺が毎日のように起こっている二十世紀の歴史をかいま見ればわかることである。
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<-- p=""><-- p=""><-- p=""><-- p=""><-- p=""><-- p=""><-- p=""><-- p=""><-- p=""><-- p=""><-- p=""><-- p=""><-- p="">人口が過剰にならないように保たれているから人間性が保たれるのであり、人間性とは人口を過剰にならないようにできる知恵も持っている筈であろう。